精神病院に身体拘束状態で入院中の知的障害者を、重度訪問介護で地域に戻すことができた話
群馬県太田市 CILの全面支援で
「孫が精神病院に入れられて身体拘束されているので助けてほしい」というSOSが知的障害者のK君の祖母から届きました。
そこで、地元CILと全国のCILが協力して、数ヶ月の準備の結果、重度訪問介護を使って、退院の支援を行い、実家の庭のプレハブ住居でK君の1人ぐらしが始まりました。現在は毎日のようにヘルパーと外出して(出かけるのが大すき)、いわゆる問題行動もほぼなくなり、人間らしく人権が守られる暮らしをしているそうです。
現在、重度訪問介護ヘルパーの介護は支給時間数である月380h。事業所の持ち出し含めて月516時間の介護を提供中。市への744時間(1日24時間)介護の交渉中で、まだ、一部父親の介護ありですが、途中経過として祖母とCILに手記と記事を書いていただきました。
退院後、ヘルパーと外出先でのK君
現在(2021年12月)の週の介護状況 空白時間は父親介護 灰色は事業所の持ち出し
孫と生きて−−
自閉症の孫から学んだ事々
文:本人の祖母
主な登場人物
私(孫K君にとって母方の祖母、以下「私」)
横浜市在住。夫は定年退職後の二度目の就職をしたばかり、娘と息子は独立、第三の人生を歩みだしたばかりのタイミングで、孫と同居することになった。
私はまだ週2回働き、夫の両親と私の母の生活見回りなどはあるが、余暇はそれなりに楽しみ始めていたころだった。
孫K君(私の娘の息子、以下「孫」)
1996年生まれ、母親(私にとって娘)が産後二か月で統合失調症を発症して、横浜にある私と夫が生活する家で、近隣知人の助けを借りながら一緒に生活することになった。
生後2歳半ごろ、「知的障碍を伴う自閉症」と診断された。
地域療育センターと幼稚園 地域小学校特別級から県立養護学校を卒業、同時に私の手元から離れて孫の父親の故郷、群馬へ移住した。孫が生後三か月の時に父方の祖父が亡くなり、祖母が一人で暮らしていたから。
孫19歳誕生日直前の、高校卒業直後の三月末だった。(2014年3月)
母親(孫にとって母、私の娘)と父親(孫にとって父)
孫とその両親は、父親の生地群馬の実家に祖父母と共に住んでいた。孫が生後2か月になった1996年(平成8)8月母親が、産後の鬱から統合失調症を発症して、私の家に移らざるを得なくなった。母親はおっとりした性格、横浜以外は知らない、いきなり知らない土地で舅姑と同居にお産という生活変化に戸惑っての病発症だろうか。
父親は若いころ東京で下宿、生活費を稼ぎながらバンド活動で楽しんでいた、明るいのんきな性格で良くも悪くも長男気質な独身時代。妻の発病により横浜に移り、私たち夫婦とその両親、近隣知人などとの暮らしが始まった。
電気工事の仕事を探して、朝早くから夜中近くまでの勤務に、休日は妻や子と行動を共にして、横浜の義親たちの労力を軽減しなければならないという境遇に一変した。その上、我が子の「自閉症」が判明してしまった。
孫たちが横浜へ移ったその日からお世話になっている、お隣の「啓子おばちゃん」が最初に「どうも違う」と気付いたのだった。生後8か月のころ、抱っこのされ方がどうも違うと感じたという。実際、生後1年あたりから体重も増えず、微熱ばかり出していたし、保健所の、生後1年半健診でも「ん?」ということだった。2歳半、保健所の健診で「崩壊性発達障碍 自閉症」と診断された。
自閉症とは?言葉の発達が遅いこと、じっとしていられないこと、こだわりが強いらしいこと、変化に対応しにくいらしいことなどなど。 一言でいえば「感覚統合不全」と言って、五感が鋭すぎて一度に全部感じてしまって脳がそれを整理統合できない障碍だと分かるまでに時間ばかりが過ぎていった。頭で理解しても、私の感性でとらえるにはもっと時間が必要だった。いまだに理解できたとは言えないと感じる。
対人関係も一瞬で見抜く、という鋭すぎる特性を持っている。自分にとって相性が良い人には対面した瞬間から「良い子」に、イヤな人と感じた人には「いやな子」になる。
療育の日々
本人は、友好的な対人関係は不可能に近く、自己主張ばかりが強い子と判断されがちである。そういう障碍というか、特性を持って生まれてしまった子どもを、家族にも理解させながら育てる「地域療育センター」には2歳半からやっと受け入れてもらい週2日通い、そして幸いにも入園できた幼稚園に3歳から週3日通いながら日々を暮らしているうちに、母親も回復し始めたのは母としての本能からだろうか。しかし、母親の主治医からは完治することは難しい、とも言われて、孫の行く末を案じ、私は自分が亡き後の、孫とその両親を案じる一方、毎日の慌しさは1日30時間あっても足りないほどだった。
小学校入学時には、後々のことを考えて地域の特別級を選択した。
一年生の12月「学校いらないの」という孫の言葉に私たちは驚きつつ反省して、あちこちの養護学校を見学したが私たちから離れようとはせず、無邪気にスキップしながら自分から入っていった県立養護学校に、孫が気に入ったと判断した私たちは小学部二年から転校させることにした。
養護学校の担任の方たちはさすが、注意深く特性を観察しながら集団生活を学ばせてくれて、走り回る子を追いかけ一般的な動きに転じるような方向に指導をしてくれていた。小学部では、失敗もあるが成功体験も学びつつ、そのご指導のもと水泳はやっと大きなプールにも入れるようになりクロールの真似をしたり、ピアノはバッハのプレリュードを弾くなど。
家庭でも散歩は大好き自転車はすぐに達者に乗る。親の会の訓練講座、等々様々な交流を親子ともに体験していた。父親も器用さを発揮して、絵を描いてカードにして、言葉の遅れを取り戻そうとするなど、想えば孫を中心に両親も啓子おばちゃんも私たちにも、善き日々であった。
二次障碍
ところが、普通でも難しい思春期の中学部に出会ってしまったのは、私には心ないとしか思えない担任の先生だった。
自傷行為、他害、フラッシュバックからパニックを起こす、などなど二次障碍を併発。せっかくの家族の配慮も無となってしまったように感じて、家庭の雰囲気すら良い時ばかりではなくなっていった。 私は「不登校」をさせざるを得なかった。
それでも高等部は、修学旅行にも参加。北海道に飛行機で行って気球に乗るなど、本人はもちろん、担任の先生も私たち家族も、大いに喜びあった。しかし、養護学校卒業時の通所施設探しでは、中学部以来の二次障碍、特に「他害」が災いして、神奈川では、進路指導部でも通所先を見つけることはできなかった。そして、父親が自分の故郷群馬への移住を決定して、孫の卒業と共に引っ越していった。
群馬での生活
群馬で新しい生活の展開を求めたものの、中学部以来の「二次障碍」と急な移住が原因して、孫の新生活に良い環境を作ることができなかった。
通所施設は生活介護で、孫には喜びを感じられなかったように私には感じた。ショートステイはおろか、一時預かり、居宅介護ヘルパーさん、行動援護ヘルパーさんも見つからず、親だけでの介護。ウイークデイは母親だけという生活になった。父親は生活費を稼がねばならないが、孫の支援もあり、満足に勤務できず知り合いのツテを頼りながら、職を転々としなければならなかった。そんな中、やっと訪問看護「きずな」さんだけが、週一時間だけ家庭に入ってくれるようになっていた。
通所施設への送迎バスには、はじめは時間通り真面目に乗っていたが、そのうちに寝たふりしてわざと遅れるなど、行かないで済む方法を、本人なりに見つけてしまった。
孫の「群馬は卒業です」と言い始めた言葉が表すように、頭の中は「横浜」への里心ではち切れそうな状態なのではなかったか。そんな時、2019年11月「事件」を起こした。
休日に横浜に来たとき帰りの車に乗って入るが足をドアに挟んで発車できず、親たちが交互に言い聞かせ、片足を入れれば片方でまた挟むという行動を繰り返し、日帰りの予定がついに3日にも及んでしまった。結局、「民間救急車」を頼み、手錠をかけて発車するという「事件」だった。
そんな中コロナ禍が始まったので、私は自分への言い訳にホッとしたが、孫にはそうはいかない。横浜など首都圏へ移動は禁止、ということを言い聞かせても、自閉症者には我慢不可能。通所施設へ行かねばならないことは理解しているが本心はイヤ。横浜に行けないことも分かっているが苦痛で、孫の心は荒れていくのみだった。
事件!
そのうちに孫は、昼夜逆転の生活を「考案」し、とどのつまりには二晩も寝ないなど。
親たちの睡眠、特に付き添っている母親の睡眠不足は大きく、2021年3月始め、母親がウトウトしている時、いつも散歩のときに行くコンビニへ一人で行ってしまった。孫としては母親を気使っての行為だったのだろう。
孫がひとりで出かける最大の問題は、中学時からの生活習慣にある。寝るときは素っ裸、朝起きてすぐ上着を来てトイレにいくので、母親がトイレの前にズボンを置くようにしていた。コンビニへ一人で行ったその日、本人はトイレもいかずにそっと出かけたに違いない。コンビニの人は、上着だけで下半身裸の男に、びっくり!警察に通報。「事件!」になってしまった。
この「事件!」がきっかけとなって、両親を囲む支援者(市のケースワーカー、相談事業所、生活介護事業所)の皆さんが考え出した結論が「保護入院」だった。
家庭でも勿論、25年分反省点は数えきれない。だからと言ってすぐ変化させることも難しい。「変化」に対応しにくいのも自閉症の特性であるから。二次障碍を起こしてしまった自閉症者との暮らしが、どれほど大変な事か。家庭生活を共にした経験のない人には理解不可能だろう。実例を挙げていたらきりがない。
入院
孫が群馬での主治医として、すぐに絶大な信頼を寄せたらしい担当医師は、入院させることを渋ったというが、行政を始め支援者たちの強い勧めに、手足を拘束することを親も承知して「入院」したのは2021年3月11日だった。
シマッタ!
支援者が極度に少ない状況での親の絶望的な孤独をよく理解はしていたが、親ならもう少し頑張ってくれるだろう、そのうちに思春期後期を通過して落ち着いてくれるに違いない、という私の考えは甘かった。「保護入院」という名目で薬拘束もしつつ運動機能を適宜落として他害を抑えるのではないか、と私は考えた。その後は入所施設へ入れると聞いたから、そのための準備として行動障碍を抑えるのが目的なのでは?
私は「シマッタ!」と思った。
救出に向けて
入院した3月11日からさんざん考え悩んだ挙句の3月29日、私はCIL上州プロジェクト(以下上州P)の栗原さんにメールした。私が上州Pという名前を知ったのは「道草」という映画がきっかけだった。24時間「重度訪問介護」制度を使って、一人一人の「知的発達障碍者」にも生活を支援するという。
すぐに栗原さんのヘルパーさんから電話をいただき、上州P山田さんに連絡するようにとの指示をいただく。そして翌30日には山田さんと親が対面。「退院に向けて一緒に動きましょう。K君(孫)を救出しましょう」と言ってくださったという。
山田さんや上州Pでは、重度知的障碍者の自立支援は初めてのこと(日本中この支援をできるセンターは数か所しかないだろう)なので、専門家の介護保障協議会の大野さん、CIL・小平の新井さんへ連絡をして、そこから推進協会の馬場さん、北海道CIL北見の穂高さんにも繋がり相談、私もお話を聞いたり先方からお電話をいただいたりした。そのほかにも、茨城CILいろはの稲田さんと増子さん、CIL小平の小野田さんなど、全国のセンターの代表や介助コーデイネーターのみなさんがリモートで連日相談、時には夜中まで協議してくださっていたと後で分かった。
上州Pでは退院後の孫に付き添ってくださるヘルパーさんを増やす必要があり、探すために車いすの利用者さんも皆さんでポステイングしたりしたと聞いたが、どんなにか大変な作業だったろう。
退院へ
しかし、上州Pと親、病院や行政との話し合いはなかなかつかないままに4月は過ぎ、5月も退院できなかった。やっと6月1日、退院を迎えることができたが、両親、介助コーデイネーター高田さん、相談支援専門員の佐藤さんが迎えた時、孫はずり足で階段はおろか小さな段差でもつまずくほどだったという。若いといえども、これほどまでに拘束の痛手は大きいのだ。
初めて迎えてくださる高田さん佐藤さんや親に暴力的行為をしないか?私が心配していたようなことは何事も起こらなかった。薬拘束やその結果の手足の不自由の影響だけではなく、迎えてくれた「人」への一瞬の見極めを孫は出来たのではないか?と私は感じてホッとした。久しぶりに安堵して涙が出た。腰抜け状態でしばらく動けなくなった。もし「救出」されなかったら、私は、その後の人生、自分になんと言い訳しながら生きなければならなかったか!?と思うと生きた心地がしない。もしあの時、栗原さんが対応してくださらなかったなら!一歩間違えば!?「運命」の分かれ目だったと思う。
その後の生活
以来半年足らず、薬は少しずつ減っては来ているが、行動はまだまだ本来の俊敏さには程遠い。ただ、何より有り難いのは、掃除、洗濯、食事作り迄、家庭で指導出来ないでいた事を、少しずつ一緒に生活しながらサポートしていただき「入院は卒業です」と本人が実感し始めて、笑顔も時に見せるようになったことはうれしい限りである。時折、山田さんや親から送られてくる動画が私の楽しみになった。自立への歩みが始まった。
今後の課題
大きな問題点は、上州Pのアドバイスで親が希望している介護派遣時間数を、行政がまだ認めてくれてない点だ。現在1か月380時間。足りない時間は父親もシフトに入って埋めているし、ヘルパーさんの献身的勤務によって凌いで居る。おかげで父親は自分の仕事の勤務時間を増やせて社会保険も支払いできるようになり、老後の生活の心配も少なくなってはいる。シフトに入る時間に間に合うように早帰りさせてもらえるのは、通勤時間2時間もかかる親戚の工場で雇ってくれたおかげ。仕事は出来るものは持ち帰るよう配慮してもらっての現在である。
少なくとも通常勤務に近い勤務ができる時間数を、行政が追加支給決定してくれれば良いのだが・・・やっと開いてくれるという12月初めの「審査会」を心待ちにしている。
群馬では初めてのこと、行政も決定には苦慮するだろうが、現場の困難を自分のこととして耳を傾けてほしい。二次障碍を起こしてしまった発達障碍者は、集団では支援し難いゆえに、「非人間的」扱いをしなければならない支援に税金を使うのか、「人間」として認めることを放棄しなければならないかは、イタチごっこだと思う。行政の人にも苦しい決断であろうが。
私は今、知的障碍自閉症の療育は、変革期にあると感じている。
「自閉症の僕が跳びはねる理由」で知られる東田直樹君の映画や書物では、知的障害と言われながら、その脳内では知的障碍と言えないような回転が行われているらしいのだ。
私が孫に接している時にも、これで知的障碍?!と思ったことは度々あった。
「福祉」の意味、「支援」の意味、そして発達障碍自閉症の「療育」の意味について、広い視野で捉えて多くの立場の人が携わり、縦割り行政を排除して、新しい「福祉・支援・療育」を考え直し実行しなくてはならない。
税金を使うにあたり、一人に使われる税金が多いか少ないかで判断せず、障碍者が「人間」として人生を送れるか否か、で決めることはよいことだとは誰でも分かりきっているのだが、目先のとりあえずの判断で大きく違ってしまうのだ。
現在、国(厚生労働省)は、「障碍者も地域で暮らす」という目的で、「施設は新設しない代わりにグループホームを」との方針を掲げた。それは「人間性の尊重」に基いていると解釈したい。
行政は障碍者にも多様な生き方を模索し、現実の多様性を認識する必要がある。知的障碍者と言えども例外なく「人間」である。知的発達障碍者には、個別支援のほうが適していると私は強調する。
行政は、限られた予算で、いかに多様な人間的生き方を、いかに多くの公平なサービスを、どう提供できるのかを、自分事として考えてほしいと私は強く何度も訴える。
世の中には、矛盾がいっぱいあり、目先の生活に追われているとなかなか他人の困難事には気が回らない。当事者はだから声をあげて人々に分かってもらう必要がある。私も、孫を通じて様々なことを学ばされた。学ばねばならなかった。だから今声を上げようと考えた。
一件落着と思える今は、今まで「ごめん」「ありがとう」「おかげで豊かな日々だったよ」と孫に感謝できる。支援して頂き「親亡き後」までを託せる皆さんに感謝して、そして心残さずに逝ける、感謝。
「梅切らぬバカ」という映画が、この度(2021年11月)封切られたという。
年老いた母親役の加賀まりこと、塚地武雅が演じる自閉症の息子との日常生活を描いて、共倒れ寸前の場面をクローズアップする。他人事ではすまされないと思う。
多くの方々に実情を知っていただきたい。考えていただきたい。「論語と算盤」が話題になっている。今こそ変革期なのだ。
退院までの経緯(CIL上州プロジェクト)
CIL上州Project代表 山田泰子
4月8日、午前。旧相談支援主催のケース会議にて話されていた内容
入院前に通っていた生活介護(通所施設)施設長を中心に施設入所の調整をしていたところへ、K君の入院をきっかけに突然、施設入所ではなく在宅支援のために早期退院という話が持ち上がり現場が混乱した、と聞かされる。
横浜のお祖母様のCIL上州プロジェクトへの働きかけで、相談支援員も従来契約していたA相談支援事業所のM氏から、自立生活センターの佐藤氏に変更することとなったが、その経緯を知らない太田市の基幹相談支援センター職員も「どうなっているのか?」と父親に詰め寄り、「(関係者に無理に頼み込んで)親が入院させておいて、今度は早く退院させたいとは、どういうことなのか?」と一喝したという。
新しく相談支援を担当することになった佐藤氏が生活介護施設長と基幹相談支援職員に連絡を取ったことで、父親が勝手に動いていたと誤解されていたことが判明したが、これまでの経緯など不明な点が多いとの事で説明を求められ、一同に集めて会議を開くこととなった。
旧相談支援員から受け取った計画相談のデータ以外は情報がないので、詳しい情報を持っている生活介護施設長から話を聞いてみると、基幹相談支援との間で情報共有があまりできていなかったのであろうこともわかった。
もともと通っていた生活介護では、男性職員は3名しかいないうえにケガも多く、K君の支援が限界だということがわかった。
自立生活センターの相談支援員の佐藤氏からの説明で、在宅に切り替えの経緯の部分については、市役所、基幹相談支援センター、生活介護になんとか理解を得られたようで、生活介護からは「情報提供させていただく」と言ってもらえた。また、この時点では、生活介護週2〜3回と重度訪問介護の組み合わせを考えていることに協力的な態度であった。
4月8日、午後。病院に同行(相談支援員佐藤氏)
K君の主治医にもCIL上州プロジェクトの支援の意向は大体伝わり「K君でも一人暮らし出来なくはないだろう」との発言があった。
なぜなら、
・彼は特別支援学校の高等部を卒業できているくらいだから、ある程度のことは理解できる。
・言葉の理解あっても、表現ができないだけ。
・ベースは受け身。
・攻撃的なのではなく、そこは自閉症の問題。
・うまく対応しきれないから精神症状になる。
このへんの理解と、「本人の状況に合わせての生活なら可能である」と。
また、本人にやってはいけないことをわからせる。
※ご両親は、なんでもK君中心に生活してしまったために「我慢すること」ができていない。
今回の入院では、大声を出すこともなく、拒絶反応はゼロとのこと。手足を拘束する時も「今から手と足を縛るね」と本人に声をかけたら(抵抗のしようがないとわかっているから拒絶せず)自分からベッドに横になったそうである。
以下のポイントを助言いただきながら確認しつつ、およその期日や目標を決め、情報共有し、退院への準備をしていくことになった。
<入院中の様子、健康状態について>
5月の中旬〜6月の間に退院させたい旨を佐藤氏から医療ソーシャルワーカー(MSW)へ伝える。
急性期病棟は3か月がリミット。K君は、医療保護入院。薬物治療を中心に、衝動抑制の制御を中心に治療。
・病院内では規則的な生活が強いられているため、昼夜逆転は良くなっている。
・お父さんの要望は、安定した状態での退院。
・肝機能に関しては陰性で問題なし。(訪問看護さんに確認済)
・入院してから身体拘束は解けないが足の拘束は解けている、手は外せないので、食事は看護師が
全介助で行ない、普通食。
・採血する際に部屋から飛びだし、男性の看護師4〜5人がかりで抑えた。
・夜勤帯は女性が多いので拘束は外せない。
・拘束によるエコノミー症候群を防止するために2〜3日に一回ほど血液検査を行なう。
・拘束しての退院となっても1週間で元通りになるからリハビリはいらない。
・人がいるときは、拘束を外して廊下を歩いたりしている。
・薬は眠剤と花粉症、抗てんかん薬、デスパタール。
・2〜3日寝ない状態が家では続いていたが、入院してからは眠れている。
・コロナの影響でリモート面会のみになりそうだと言われる。
お父さんの話しでは、他害行為が激しいので、ヘルパーにケガをさせてしまったら回らなくなることを心配し、生活介護に通わせることも必要ではないか?と考えていた。
CIL上州プロジェクトの考え
CIL上州プロジェクトでは、介護体制が整っていないところで見切り発車をしたらヘルパーもつぶれるし、仲間にも影響がある。他のCILの利用障害者も新人ヘルパーを雇ってくれれば新人ヘルパーの育成に協力してくれると言っている。
生活介護施設長と話してみて、私たちは重度訪問で支援していきたいと思っているが、本当は今までの関係者を味方につけたい。重度訪問の支援を理解してもらいたい。
地域に出すことの理解をしてもらいたい。自立した後に心配がなくなるわけではないので、ある程度の時間の目安があった方がいい、と会議で検討。
K君の退院に向けては、病院MSWとの関係作りも重要で、会議用の資料を事前に届けたり、詳しい内容まで伝え、こちらが本気で支援を考えている姿勢を見せると、MSWは協力的だった。
生活介護、基幹相談支援センター、市役所を含め、「ご両親の意向で進められてきた施設入所」から、「重度訪問介護による自立生活」への変更を理解を得ていく。
誤解の紐を解くことが課題。
知的障がい者の重度訪問介護による自立生活の選択肢を知ってもらう。
今回が太田市の一例目だとしても、これが世の中のスタンダード。「日本では脱施設=GHだが、じつは自立生活という選択肢もある」ことを理解してもらった上で、自立生活をスタートさせたい。どんなに遅くとも5月の前半の審査会にもっていきたい。
5月10日、午後。支給申請
相談支援員の佐藤氏が代理で重度訪問介護支給申請書と申請書別紙資料(数十ページの詳細説明)を市に提出したところ、別紙資料のみつき返される。
市は「主治医の意見がどこにも盛り込まれておらず、誰が見ても納得できる内容とは思えない。本当にこれがKさんにとって一番いいと思われる生活なのか?」と疑わしい言い方。また、夜間以外の部分は認められるとして、概ね月240時間までは出せても、この計画案では認めるわけにはいかないので、もう一度検討し直すよう言われ、「お持ち帰りください」とまで言われた。
その後、法律に詳しい全国団体に相談したところ、申請自体は法律行為であり、申請書と別紙を切り離して返してしまう行為が法律的に間違えていることがわかり、佐藤氏が市役所に電話をかけ、「申し入れ書」とともに数十ページの申請書別紙を再提出する(13日)。
5月13日、午前。病院にて関係者会議
主治医より「K君の入院中に急遽支援者の入れ替わりがあり方向性がガラッと変わったことで、入所へのプロセスを崩したことに戸惑っている。」「生活介護施設長は、大変ご立腹で手を引くことになり私も弱ったなと思っている。」「安全という意味では、入所が一番だと思っている。」「今までのプロセスある中で在宅は、冷静になって見ていく必要があるしすごく時間がかかると思う。」「在宅は目標でいいが、今の段階で「在宅でいいよと」なんて意見書は書けない。」
といった趣旨の説明
<退院について>
病院側は具体的には決まったわけではないが、6月10日を過ぎることはないとの意見。
6月1日から、ヘルパーは入れると伝えると、「その日に合わせて退院は可能」とのこと。
<市障がい福祉課より>
・生活介護無しなら、11.5時間/日まで可能。
・生活介護有りでは、8時間/日。
・生活介護が見つかるまでの間なら、24時間出せるかも知れない。
・支給決定の6/1遡及はOK。
<リモート面会>
K君とオンラインで面会という話しだったが、朝とった録画を見せられただけ。
薬漬け、拘束して朦朧としている様子。裸に拘束器を括りつつけられているK君の姿は、実に痛々しかった。ご両親は、「息子のあんな姿は初めて見た」と衝撃を受け、一日も早く出してあげたい気持ちが強くなる。
<関係者会議を終えての感想>
関係各所からの聞き取りにより、佐藤氏が作った計画案や申請書・別紙資料などを市役所に提出したが、主治医の意見が盛り込まれていないことで返却されていることを説明したが、主治医自身がまだ入所へのプロセスにこだわっていたことがわかり、「今は在宅ありきで意見書を書けない」と厳しい意見を言われ、この先付き合っていく中で信頼関係を築いていくしかない、と決意。
弁護士代理人スタートのタイミング
予定していたS弁護士の具合が悪いので、N弁護士に会って両親とも面会し、代理人・変更申請で契約をすることに。
太田市は計画案の段階で時間数を減らさなければ受け付けないので、これからは医師の意見書を付けて再提出したときに態度が同じであれば、弁護士を立てる旨を伝える、という計画に。
6/1から遡及して使えるという件も、しっかり役所に確認してもらう。
ヘルパーの状況
・K君介助に入れるCILのヘルパーは4人、月200時間程度。(その後516時間に増えていった)
・K君が慣れたら、2〜3人増やす計画。
・ヘルパーに映画「道草」を見てもらって、その後5/10(月)に研修を行った。
→ご本人にまだ会ったこともないから、ヘルパーも不安な気持ちを出しようがない。
・CILいろは、CIL小平の利用者のビデオは撮影中。
・直接、K君の介助がスタートしてから、月1回くらいでヘルパー研修を考えている。
・6月のシフトについて
現在、シフトを組み直して、お父さんと合わせて穴が開かないように組むことができた。
→ヘルパー所属の介護派遣事業所の36協定を確認する。残業の上限時間数。通常の上限と、特別条項という2段階目の上限時間数の確認が必要。一般的には70時間前後で設定しているとのこと。
・その他
ご実家に使っていない車があるので、それをK君専用で、ヘルパーが運転して外出支援できる任意保険契約にしてもらった。
生活介護
近隣の生活介護事業所に見学可能かのアポをとるも、人員不足や男性職員の確保が難しいとの理由で、14か所のうち4か所のみOKをもらい、5月20日、ご両親、佐藤氏、介護コーディネーターの田、山田とで見学。個別対応が難しいとのことで断られたところもある。見学を受け入れてくれた事業所には、退院後の様子を見て、見学に行けるようであれば連絡すると伝える。
現場準備
・5月22(土)介護コーディネーター高田が熊谷のヘルパー事業所で、知的の移動支援現場にヘルパーさんに同行させてもらい体験した。
・5月23(日)水戸市のCILいろは介護コーディネーターの増子氏が、自立生活3年目のH君と共にCIL上州プロジェクト事務所へ来所。事務所付近の散歩に同行させてもらい、介護ノートの書き方などを伝授される。
太田市役所
・5/13会議以来、福祉課の対応が最悪だった。電話で話をしたいと言っても受け付けない。
計画を11時間で書き直さないと支給決定はしない、という違法な言い方だった。
・MSWと密に連絡取り合っていた。主治医が意見書は書かないと言っていたので、佐藤氏からMSWに手紙を出して先生を説得してもらうように頼んだ。
・29日に「診断書が書けました」とのことで、ご家族が受け取ってきたら、障害の状況が書いてあるだけで、ヘルパーのことは何も書かれてなかった。
・5/31基幹相談支援センター職員と福祉課A氏が窓口で対応。「6/9に審査会を開くかどうか、診断書を見て協議する」というもの。
・6/1夕方。「審査会を開かずに支給決定を380時間」と連絡が来た。
・次の日に受給者証を取りに行ったら重度訪問介護299時間、そのうち移動介護81時間と記載されていた。これでは380時間使えることにならない。事務的なミスということが分かり、福祉課に伝えるとミスを認め謝る。
その後、「380時間うち移動介護加算81時間」で受給者証を出し直し。
・弁護士の意見としては、支給が出たので、時期を見て審査会を開かざるを得ないやり方で、変更申請をする計画となった。
・三枚橋病院→訪看への特別指示書には「常時介護が必要」と記載がある。
【退院の日の様子】
K君、無事に退院しました。ゆっくりだけど、看護師に連れられて歩いていました。「こんにちは」と小さい声で言えていました。ただ薬の作用で、歩行時につま先が上手く上がらないことや、ふらつきが多いです。
退院➞折り紙➞YouTube➞ドライブ➞散歩➞お風呂。唾吐きしますが、ちゃんとゴミ箱にします。すんなり、プレハブでお風呂に入ってます。・・・田CNの報告LINEより。
ここからは、横浜のお祖母様と共有できている部分になるかと思います。
3月29日の悲痛なメールと電話から始まったCIL上州プロジェクトの支援ですが、未経験のことばかり。東京のCIL小平の新井CNには「やることリスト」ほか、リモート会議の司会進行記録まで、CIL北見の穂高CN、CILいろは稲田代表、増子CN、推進協会の馬場CN、CIL小平の小野田CN、推進CNチームへの繋がりと助言を下さる大野さん…皆さん心強いサポートを得られたおかげで、今日も、この瞬間もK君はヘルパーと近い将来、親離れして自分の生活を歩んでいくための自立体験をしているのです。
けなげで、たくましく、やさしくて、ひょうきん者で、笑顔が素敵なK君です。とても癒されます。
巡り会えてよかったと思います。
今後は、変更申請で行政と向き合ってもらうべく、K君を皆でサポートを続けていけますよう、よろしくお願い致します。
重度訪問介護ヘルパーと外出の様子
1人暮らしをしている実家敷地庭のプレハブ住居にて調理を学びつつ食事(ヘルパーが撮影)
1人暮らしをしている実家敷地庭のプレハブ住居にて食器洗い(ヘルパーが撮影)
外出が好きで、ヘルパーと毎日のように外出しています(ヘルパーが撮影)