2017113日北陸中日新聞

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朝日新聞 2018318

石川)共に暮らし、語りたい 筋ジス患者・古込さん講演

           定塚遼

 

写真・図版横になった状態で用意した紙を読み上げる古込和宏さん=金沢市尾山町

·                     写真・図版

 

重度障害者の病院や施設外での暮らしを考えるシンポジウム「共生社会実現のヒントとは」が17日、金沢市尾山町の金沢商工会議所で始まった。昨秋から自立生活をおくる筋ジストロフィー患者の古込和宏さん(45)が講演やパネルディスカッションに参加。「これから色々な人に会って話したり、色々な風景を見たりして視野を広げたい」と語った。

 130人の参加者を前に登壇した古込さんは用意した文章を途中まで読み、その後はヘルパーが代読。専門家らとのパネルディスカッションでは自ら受け答えした。

 輪島市出身の古込さんは5歳のころ筋ジストロフィーと診断を受けた。8歳で家族と離れて金沢市の病院に入院。以来37年間、病院で暮らしてきた。講演では「病院にいながらも、心の目はいつも外を向いていたが、そこから一度も自分の将来の姿が見えたことがなかった。高等部卒業後の人生はとても長く感じた」と振り返った。

 病院を出たくても、「家に帰りたい」と言えば家族の生活が立ち行かなくなるのは分かっていた。「絶対に言葉にしてはいけないと思っていました」

 その後、インターネットなどで情報を集め、協力者を得て病院外での生活を実現させた。パネルディスカッションで退院までに大変だったことを問われると、「看護師を自分で確保しなければならず大変だった。社会の皆さんに、外に出たくても出られない私みたいな人がいることを知ってもらうことが大事」と話した。

 基調講演では金沢大の井上英夫名誉教授が「施設や家に閉じ込めれば犯罪にもあわないし安全。だが、そうしたことが障害者の選択肢を狭め、自己決定する機会や力をつける機会を奪ってきた」と話した。

 18日は金沢市石引4丁目の本多の森会議室で、弁護士が障害者の権利擁護をめぐる事例について報告する。無料、申し込み不要。手話通訳要約筆記あり。(定塚遼)


 

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石川

2018318

 

筋ジスの古込さん「地域と生きたい」 金沢でシンポに登壇

パネルディスカッションで発言する古込和宏さん(左)=金沢市尾山町の金沢商工会議所で

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 全身の筋肉が徐々に衰える筋ジストロフィーを患い、昨年十月に三十七年間の入院生活から一人暮らしを始めた金沢市の古込(ふるこみ)和宏さん(45)が十七日、同市尾山町の金沢商工会議所であったシンポジウムに登壇し「これからも支えてくれるヘルパーや看護師、地域の皆さんと生きていきたい」と語った。

 古込さんは、生い立ちから退院までの経過や思いをつづったA4用紙六枚に及ぶ手記をゆっくりと読み上げた。一ページの半分ほど読み上げた後、ヘルパーが代読した。

 退院までの大きな壁となったこととして、古込さんは病状を心配する両親の反対と医療面でのサポートだったと振り返り、「人のつながりが生まれ、さまざまな助言や協力があって地域移行ができた」と述べた。

 古込さんの退院を支えた筋萎縮性側索硬化症(ALS)の母親の介護記録「逝かない身体」の著者川口有美子さん、金沢税務法律事務所の宮本研太弁護士らとのパネルディスカッションもあった。自立を反対する家族との葛藤について問われると、古込さんは「もう成人しているので両親の同意は不要だと思った。自立したいと思う人は自分で主張してほしい」と語り、「一度は両親と絶縁状態になったが、どれだけ時間がかかっても両親と向き合っていきたい」と述べた。

 宮本弁護士は「県内に前例がなく、古込さんを支えるヘルパーの確保が難しかった」と明かした。

 シンポジウムは「障害と人権全国弁護士ネット」が主催した。 (蓮野亜耶)

 

 

 

 

 

 

2018年3月の障害と人権全国弁護士ネットのシンポジウムでの古込さん原稿を掲載します

 

 

 あまり長く話し続けることはできないので、途中でヘルパーの横田が代読します。

 

 私は1972426日、輪島市に生まれ、5歳の時に筋ジストロフィー・デュシェンヌ型と診断され、地元輪島の小学校に入学し一年間だけ通い、8歳まで輪島で過ごしました。私の障害を手探りの中で受け止めてくれた当時の担任には感謝しかありません。母親からある日突然、病気を治すのに金沢の病院に入ることになると言われ、大泣きした記憶があり、入院して家族と離ればなれになるのは、子供の私にとっては衝撃で、私は、ただ入院生活で頑張れば、すぐに家に帰れるものだと思い、決心して入院したのが、1980121日の大雪の日でした。やがて歩行困難になっていくことと、当時の時代背景を考えれば、私が義務教育を受け続けるためには、入院しながら病院と棟続きになっている養護学校に通うしか選択肢しかなかったのです。

    

 筋ジス病棟では年下の子から、成人した患者まで、45人程度が同じ病棟内で療養生活を送り、同年代の子供たちは兄弟のように過ごしました。その中で、自分が将来にどのような道をたどるか見えていました。子供のときから、闘病の果て無言で帰宅する友を、何度も数えきれないほど見送ってきて、
自分は二十歳くらいまでしか生きられないと分かったのです。長く重苦しい入院生活で一番良かったことは、囲碁という一生の友を得たことでした。
退屈で仕方なく暇を持て余していた私は、軽い気持ちで養護学校の先生に囲碁を教えてもらい、やがて学生の大会などに連れて行ってもらうようになり、病院から出られる貴重な機会も得られ、いつも病院にいながらも、心の眼はいつも外を向いていたのですが、遂に、そこから一度も自分の将来の姿が見えたことはありませんでした。
  高等部を卒業し、病状の進行で人工呼吸器をつけ、ベッドで過ごす時間も長くなりましたが、ケアの進歩と、人工呼吸器の普及で、二十歳前後までしか生きられないと言われていたデュシェンヌ型患者の生命予後も改善されましたが、高等部卒業後の人生は、とても長く感じ、気が付いたときには三十代になっていて、これ以上入院生活を続けることに意味を見出せず、かといって病院から出て生活している自分を想像しても、実現のために、どう行動を起こせばよいか分からずにいました。家に帰りたいと言えば家族の生活が立ち行かなくなるのは分かっていたので、絶対言葉にしてはいけないことだと思っていました。

    

 そんな私の人生に転機が訪れたのは、2012426日の40歳の誕生日で、その日、虫垂炎と腸ねん転を併発した私は、ほかの病院に救急搬送され全身麻酔で手術を受けることになり、死ぬ覚悟で手術室へ入っていったわけですが、10日間ほど眠り続けている間に、一度心停止に陥り、目を醒ましたとき声を失ったことを思い出しました。
私は伝達手段を失したことで、生活のあらゆる場面で困りごとが増え、毎日、両親を頼るメールを入れているうちに、いずれ家族を頼れなくなる日が来ることを想像し、今後の生活と人生について真剣に考え始めたのでした。親が高齢になるにつれ、面会に来るときの長距離移動も辛くなり、無理までして来なくていいと言ったこともありますが、親の立場からすると少しでも我が子と過ごす時間を取りたいと思うし、「来なくていい」という言葉は両親には強烈で、理解に苦しんだかもしれません。ただ私としては、いつか来る親子の別離は避けられないので「自立しなければ」という方向へと考えていくのでした。

 長期にわたる入院となれば、そこにある自分が持つ人間関係は、病院職員か家族が中心という患者が多く、私の場合、両親が唯一の頼れる存在なので、両親には自分に必要な手続きや金銭管理は任せていたので、自分が利用している医療サービスの内容も知らなければ、自分名義の口座の残高も把握していませんでした。

 20131220日、少しでも自分のことを把握しなければと思い、両親が面会に来た時、自分は退院して一人暮らしをして自立したいので、自分のお金の管理状況を聞いたところ怒り出し、その場を去ったのでした。生活が苦しいのは知っていたので、聞かれる両親も心苦しく、辛いことも分かっていました。時系列は前後するのですが2013年の2月あたりに退院して地域で暮らしたい希望があることを病院のワーカーに相談したところ、地域で生活するための重度患者の受け皿がないと言われ、自立以外の方法も考え、二年近く模索しましたが、結論としては、入院生活を続けながらの問題解決は不可能という答えにたどり着き、「地域に受け皿がない」という言葉を疑ってみることにしました。
  ネット上で交流がある県外の地域で暮らす筋疾患患者から、在宅での暮らしぶりなどを聞くところから始めました。とある県外の障害者福祉が充実しているところに移り住み、自立するほうが早道ではという助言もありました。しかし、重い障害を持ち、医療依存度の高い私が、長く入院している病院と関係解消し、県外の医療機関と空白状態から関係構築するのは、自立以前に生存に難渋するのは直感的に判断できたので、地元で独居による自立を目指すという方針は変えようがありませんでした。

   

 その当時、地元で協力者を得て地域移行のため情報収集していたものの、地元では地域移行に関する好材料はなく、201510月、(ALSさくら会の)川口さんに相談をお願いしました。まず全国広域協会を紹介してもらい、連絡を取り合うようになってから弁護団も結成され本格的に地域移行が動き出し、広域協会と川口さんから受ける助言と支援は、いつも具体的で的確なものでした。後進地と言える石川には、他地域との格差を埋めるには遠隔地支援は必要不可欠でした。これは後で述べますが、地元の機動力のある支援者となる人材も同じくらい重要だと痛感するのは、もう少し後のことになりますが、

 

話しの場面を巻き戻し、2014年、私と両親の状況といえば前年の12月に退院の希望を伝えて以来、両親とは疎遠になり、自分の起こしている行動が死ぬ前に唯一できる親孝行だと信じ、互いに距離を置き自立すること、今後、互いの時間を大事にすることが重要なことだと考えました。
  母と会ったのは退院する間近で、私のところに父と来た時で、「今生の別れを言いにきた」と言い、そして相変わらず父は私を責めるだけで、主張は変わっていませんでした。とりあえず私は母に「今までありがとう」とだけ感謝の言葉を伝えたのですが、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、退院したら必ず輪島の実家に行き自分の荷物を取りに行くとき会うのにと思い、その場のやり取りを面倒に感じていました。障害の有無にかかわらず親と子はすれ違うことはあるし、生き方にまで誰かの同意や許可を得る必要はないという考えが徐々にできるようになっていきました。

    

 私が地域移行を進めるうえで大きな障害になったものは2つあり、ひとつめは医療的な問題と、家族の問題なのですが、自分を証明できるものや通帳も親の管理でしたので、地域移行のための資金を確保するにもできない状況でした。新しい口座を作り障害者年金の振込先にしようにも、銀行の窓口に出向くのに介助者をすぐ確保できないのと、それ以前に外出できるようになるためには準備に相当の時間を要するので、ネットバンクの口座を作ることを試みました。

 このようなアイディアは私には思いつかないので、広域協会に相談をいただくのが常でした。実際、新規口座を作ろうと試みるも、本人確認書類となる公的書類のコピーと公共料金の原本を入手するのが困難な状況でした。
 
20162月のことで、同時期には地域移行を進めるうえで様々な手続きが発生するので、役所からの郵便物が実家に届かないようにするため、住民票を水面下で金沢に移すのに、一時的に住民票を置かせてくれる協力者を探しました。
  まずは病院長に手紙を書き、一時的に病院に住民票を移させてもらえないかお願いしてみたり、数少ない地元知人にもお願いしてみたりもしましたが、さすがに無理な相談で、住民票の異動については当面、先送りにすることとしました。
また、すでに地域移行に反対している両親に手紙を送り、地域移行への理解を求めました。手紙の内容には細心の注意を払い、両親の先鋭的態度を誘発しないよう、できるだけシンプルな内容を心がけました。
手紙の返事はもらえずじまいで、
2016331日、宮本弁護士が両親に電話をかけ、最初はかなり父親に警戒されたものの、直接、宮本弁護士と会って話したいということになり、病院関係者と両親を交えた面談がセッティングされ、44日に面談が実施され、その席で宮本弁護士は両親には金銭管理については触れず両親の前向きな言葉を引き出すことに成功したことが保存してある当日のメールに書かれています。

 かねてより父親は私と会う気はないと公言している中で会うのは時期尚早と判断し、私は面談の席には欠席したのですが、病院に迷惑をかけることになっては、病院も協力しづらい空気が生まれてしまうのは避けたいと思っていました。5月下旬には、父親がアパートを借りるとき保証人になってもよいと発言したと、病院のワーカーから聞いたのですが、71日、宮本弁護士が電話をかけ、私の住民票を金沢に移したい旨を伝えると、態度を一変させ理由をつけ断ったのは、ある程度は、そんなこともあり得るとは思っていたので驚きませんでした。

 宮本弁護士の粘り強く両親に臨む姿勢に、私はただただ感謝しかありませんでした。
  その後、親子の話し合いの場を持ち、障害者手帳と通帳を両親から取り戻さなければ、地域移行を進めるのは難しいとの声もありましたが、やはり病院からの協力をお願いしなければならい以上、やはり両親と会わないという当初の方針は変えようがなく、障害者手帳や通帳といった重要部分はとりあえず先送りすることなりました。

  地域移行に必要なものは確かに自分の手元になかったのですが、それだけあれば地域移行できるかと言ったら、それは違って地元では得られないノウハウを伝授してくれる方や、身動きの取れない私に代わり動ける機動力のある地元の方が必要でした。

 201512月からはじまった自立生活プログラムには、関東や東海各地のCILの代表クラスの方が講師として駆けつけてくれ、プログラムの内容はヘルパーとの関係や、自分が使う制度の学習、金銭管理やアパート探しなど多岐にわたり学ぶことができました。
  講師の方たちは今でも良き相談相手として連絡を取り相談をお願いしています。

 20161020日は、川口さんの紹介から繋がった方々で構成される地域移行を支援する会の第一回会合を医王病院の一室を借り開き、私は会に「地域で暮らすためにみんなで考える会」と名付けました。人の繋がりで私は地域移行できたのでが、川口さんからの紹介で多くの方と出会うことになりました。

 CIL富山の平井さんは、古くから障害者運動に携わり経験豊富な方で、障害者のリアルと長年向き合い、相談支援をされてきた平井さんの話を聞けるのは私にとっては貴重な経験で、今でも保存してあるメールを読み返すと、その当時は理解できなくても、今になり少しずつ骨身に沁みてくることがあります。

 最初、平井さんに連絡を取らせていただいたとき、医療同意の件で相談をお願いしました。
家族と絶縁する覚悟でいましたし、私は経験から家族ではなく他人に依頼するのは正しい判断だと思いました。この件に関し、平井さんは「重い相談」と表現されましたが、もし逆の立場に立てばその通りで、頼まれてすぐ返事を出せるものでもなく、私は時間をかけ答えを出すしかないと思いました。

 自分なりの答えを出すまでに平井さんの助言は非常に参考になり、法律の専門家である宮本弁護士の、より具体的な助言がなければ具体的方法を導き出せませんでした。

 その後、平井さんからは地元石川の人材を数人紹介していただきました。

 20163月末、介護保障協議会から富山在住の看護師を週1~2回派遣していただくことになりましました。
その頃、外出や宿泊のトレーニングといった実践的段階には至ることができずにいて、折角、看護師という人材が来てくれるのなら、トレーニングに向け介助方法を病院から教えてもらうことができると良かったのですがタイミングが合いませんでした。
外出するには準備不十分な状況だったため、その方に事前にネットで目星を付けた物件情報をその方に渡し、不動産屋に行ってもらい可能性調査をしてもらうことにしました。
私の場合、いろいろな条件が付くのですが、車椅子ユーザーだと物理的バリアはつきものですが、金沢市は重度障害者のための住宅改修の補助事業があり、大家との交渉次第で問題をクリアできるのです。

 ハード面よりも高いバリアを感じたのは、不動産屋回りから得た情報として必ず出てくる問題は、生活保護や年金の収入では審査に落ちるから保証会社利用をできないというもの。公的お金が毎月入ると説明しても理解を得られず、また不動産屋として持つであろう不安要素は瑕疵物件にならないかという懸念で、それに対して24時間、交代でヘルパーが付き添っていると説明しても理解が追い付かない状況に関しては、いずれ私は不動産屋に出向き直接お話しさせていただこうと思います。
  公営住宅も真剣に検討しましたが、常に空きがあるとも限りません。仮に空きがあったとしても私は住みたいところで暮らしたいし、行政が用意しくれバリアフリーの整った公営住宅に入って、社会に対してハードルを下げてしまうことに違和感を覚えました。

 不動産回りに奔走してくれた看護師さんの派遣も、7月まででしたので、新たに看護師を探さなければならなくなり、広域協会のほうでも人材獲得のためハローワークに求人を出してくれ、私のほうでも看護師のバイト募集のポスターを作り、知人や なないろ訪問看護ステーションの高島所長に配布をお願いし、高島さんは看護協会のほうに求人の情報も出してくれました。
  高島さんとはこのころ知り合ったばかりで、私は前年の
2016年冬から金沢市内の在宅医療の資源についてFacebookで繋がっていた地元の医療従事者に聞き込みを開始し、その過程で得た情報から高島さんのところの訪問看護をネットで調べ、Facebookの「なないろ」のページを見て退院後にお世話になりたいと思い、167月に高島さんに連絡を取り、それ以来のお付き合いでお世話になっています。


  看護師の求人募集の件ですが、看護師の人材確保の難しさを痛感しました。退院後での生活では、ヘルパーと過ごす時間のほうが多いのに、なぜ看護師?と、思われる方が多いかもしれませんが、病院では家族以外との外出や外泊では看護師が同伴しなければならないという病院からの安全管理上の指導があり、自発呼吸がなく人工呼吸器による管理が必要なデュシェンヌ型の患者を、安全に送り出し無事帰さなければという責任は、送り出す側の病院にとっても重い負担である事実を無視できません。
  一方で地域移行する側としては自費で看護師の確保を求められるのなら、経済的負担が大きく、たとえ本人が地域移行を希望しても、できないという状況が今後出てくるでしょう。
望まない死亡退院を選択せざるを得ないような状況は、共生社会の実現を目指す流れに逆行するもので、医療依存度の高い患者は介護保障だけでは地域移行を進めるのは難しく、医療側が地域移行を積極的にサポートできる制度の裏付けがなければ、スピード感を持って進めるのは不可能であり、進行性の難病患者にとっては深刻です。医療面のサポートは高島さん一人では負えるものではなく、
20169月、富山の平井さんの古い付き合いのある方で田中さんという地元石川の看護師を紹介していただきました。

 古くから障害者運動に携わってきた田中さんと初めてお会いしたとき、「私は制度のない時代から障害者運動に関わってきているので、古込さんとも制度の及ばないところで動く」と話され、私が待ち望んだ人物が現れた瞬間でした。高島さんと田中さんが退院に向けた病棟による様々な場面を想定したレクチャーや、宿泊体験や外出といった重要場面では必ず顔を出してくれ、力を貸してくれました。住民票の件でも田中さんの自宅に一時的に住民票を置かせていただき、地域生活に向け必要な手続きを進めることができたのですが、そう簡単に引き受けられることではないことを田中さんは引き受けてくれたのでした。

 201758~10日、22~24日の計二回、院外での二泊三日の宿泊体験を実施することができました。滞在先は地元支援者の西田さんが運営する凪のいえに宿泊させていただいたのですが、そこは普通の民家で、そこの一間を私は借り泊まることができました。
  ヘルパーが仮眠を取る部屋まで提供していただき、ヘルパーの人材は二回の宿泊ともCIL小平の四名が駆けつけてくれました。宿泊体験の際は、銀行窓口に出向くのは難しい状況であったため、西田さんの銀行への働きかけにより口座を開設できたのは、今でも私の助けになっています。

 その後、退院した1011日から125日まで凪のいえに滞在し、西田さんが集めた方たちがヘルパーとして入り、皆さん重度障害の介助ははじめてながらも、約二カ月の滞在期間を献身的介護で支えてくれました。退院に向け、地域医療の情報提供や連携面で親身に相談に乗ってくれたのが、金沢市内にある、小川医院の小川滋彦先生と石川県保険医協会事務局の橋爪さんでした。橋爪さんには、あらゆる地元でしか解決できない様々な難題についても相談をお願いし、それは今でも続いています。

 

 最後に触れておかなければいけないのは、宿泊体験の前に事前意思表示とした文書を残し、それを読み上げるビデオ撮影もしました。宿泊体験で意識不明の状況で救急搬送された場合、誰に医療同意を任せ延命処置をどうするか。
  死亡した場合、全責任は自分にあり、支援者をはじめ、私に関わるすべての方に対し、家族からの責任追及は私の意に反する行為であること。葬儀や墓は不要であることを書き記しておきました。ただ法的効力があるかといえば十分ではないそうです。
  退院直前のケース会議では、どこの医療機関でも身元引受人は家族でないと入院させてもらうのは難しいと聞きました。社会の価値観も、家族のカタチも多様化した時代に家族の有無で人命が振るいにかけられることがあるのかと思い、なかなか光が当たらないだろう、この問題に関しては社会全体で考え議論をお願いしたいところです。

 

 これからの私のことですが、37年近くの長期入院で、人生の軸足を医療だけに置いて生きてきたので、他の部分にも重心を移しつつバランスを取りながら生きていこうと思います。かなり病状が進行してしまってから難しいという見方はあるかもしれませんが、可能な限り、地域で私を支え、伴走者になってくれる皆さんと生きていこうと思います。もちろん、その中には、これまで長年入院していた病院も含まれます。

 

 そんなことのために、あなたは病院を出たのか?と思われるかもしれませんが、地域社会を変えるには、個人的なくだらない理由が何よりも大事なのです。
一度、両親とは絶縁になったとはいえ、私は故郷をなくしたわけではなく、必ず約
18年ぶりの帰郷を果たし、私の障害を受け入れてくれた小学校一年生の担任に感謝の気持ちを伝えるため、再会を果すでしょう。
  これまで、もう出ることはないと思っていた囲碁大会に出るつもりです。近所に買い物や散歩に出て陽の光を浴びて多くの方と会い、話す機会も増えるでしょう。これらは何ら特別なことではないのです。
  長期入院や家族介護を余儀なくされる患者さんの中にも、自分のささやかな想いを内に閉じ込めたまま、何らかのきっかけを待っているのなら、微力ながら自分の経験を活かせることができればと思います。

 

 

 

(ここまでが古込さん原稿)

 

 

その後の情報(介護制度情報編集部)

Fさんは自立後半年の現在は、アパートに住み、求人広告で雇った自薦ヘルパー(常勤)4名と全国団体の東京からの出張常勤ヘルパー1名の、5名体制で24時間(一部2人介護)を埋めています(全国広域協会利用)。

また、県内の重度難病患者や重度障害者が地域で生活できるように支援する活動も先々行っていきたいと考えています。この制度を知らない重度障害者に24時間の重度訪問介護制度の情報が伝わるように、マスコミ等の取材も積極的に受けています。

 

■人工呼吸器利用者の24時間介護と自立生活の事例

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