佐世保市で人工呼吸器利用の24時間介護利用のALS患者が病院を出て1人ぐらし開始
長崎県佐世保市で、人工呼吸器利用のALS患者が、いわゆるキンジス病棟を出て、重度訪問介護24時間利用で、自宅での一人暮らしをスタートしました。
重度訪問介護744時間と介護保険利用。退院に向け1年以上前から準備を進めてきました。
すでに佐世保市で24時間重度訪問を利用中のCIL佐世保の堤さんの紹介で同じ相談支援事業所と契約し、市役所からは、早い時期に重度訪問介護24時間支給の回答を得て、自薦ヘルパー求人を早めに行いました。11月からの勤務であることを明示して求人し、夏頃には常勤3人を内定。病院での事前研修も退院前に実施。
病院からの1人暮らしのため、家族がいないなか初めて介護するヘルパー3人が安全に育つまで支援するため、東京・鹿児島・佐世保の呼吸器利用者の介護のベテラン出張応援ヘルパー3人が1ヶ月24時間サポートに付きました(全国広域協会のサービス利用)。
ヘルパーは1日2交代(日勤10:00−20:00と夜勤20:00−10:00)。常勤の自薦ヘルパー3人が週12回担当で、週2回は地元事業所で重度訪問介護利用。介護保険は通院やリハ散歩外出時に2人目ヘルパーとして利用予定。今後趣味の外出などが始まるときには、重度訪問介護の時間数を増やす話し合いを市と行う予定)
全国的にはまだまだ退院からの1人ぐらしをするALS患者の事例は少ないため、御本人の大桑さんに意思伝達装置で記事を書いていただきました。
bP 重度訪問介護で念願の自宅での生活が出来た。!
令和4年11月1日に念願の退院ができました。ここまでのお話を残して皆様方の希望の一つにして貰えば嬉しく思います。 遡ってお話することにします。
病院で受診終わりに文字盤でコミュニケーション中
呼吸器調整とパソコンでヘルパーさんに意思伝達状況
「私の病気は、???」
平成30年5月末のソフトボールの時でした。ヒット打って塁に出てオームベース前で足がもつれてこけてひじをすりむき年のせいで足がもつれたのだと思っていました。次の打席のランニングでも足がもつれてこけは、しませんでしたが何かがおかしくなっていたのです。その時が!病気の発病でした。
その後仕事中にも左足がもつれて身体だけ先に行きこける回数が増えて左足が膝から腰迄あまり曲がりにくく痛みがててきました。その後時間と共に階段上り下りに左足がよく震えだしました。
病院で見て貰いましたが?で坐骨神経痛ではないかとの事でした。
それから自分なりのリハビリをしてましたが かわらずつまずき転倒が増えてきました。6ヶ月後左手でペットボトルの蓋が明けられず力が入らなくて右手で開けていました。
流石に病院でCTなどを撮って検査しましたが少しヘルニアがあると言われ腰に電気をあてたり牽引したり別でもカイロプラクティックなどに行き治療法を模索していましたが治らす。ひと月ほどして、大きい病院に紹介状を書いてもらい杖を突きながら左足を引きずり歩く様になってましたので検査して貰いましたか手術するまではないと言われてブロック注射を打つ様になってました。また、2週間に1回でしたのでその別の日は整骨院に行き治療をしてましたら震えや痙攣みて神経系のパーキンソン病では、と言われて脳神経外科に行き検査して異常なくて今度は、神経内科を紹介するとのことになりました。その後しばらく検査さがができずに違う病院で検査したら首にもヘルニアが見つかりその後に入院することになりました。令和元年7月でした。それから色んな検査してましたら 親指と人差し指の間の痩せなど腕のピクピクの痙攣をみた先生からまた、紹介状を書いてもらい神経内科で筋電図や髄液検査や歯科での呑み込みや肺活量や色々とした結果が筋萎縮性側索硬化症と言う病気だと判明しました。その時には、余命宣告を言われました。3年から5年で筋肉が動かなくが動かなくなり呼吸も出来なくなるということでした.
呼吸が出来なくなる病気という事を検索して何度も自分自身がなぜ10万人に1人に選ばれたなのかこの病気のは、治らないのか色んな事を調べて死のことを考えて途方に暮れる毎日でした。子供達に会いたくなり数年ぶりに連絡を取りました。 数年ぶり再開でしたが 会いに来てくれました。
最後かもと思い写真を取り 記念に残るかたちあるものをプレゼントで送りました。
bQ 入院生活と車椅子
Aの病院から入院生活が始まりBの病院でALS患者と診断されたあとに余命宣告は、私自身を悩ませてくれましたし少しずつ身体の筋肉が動かなくなり3・4ヶ月に1つずつ動かなくなり進行状況が早くなってました。Cの病院にうつりリハビリ治療しながら体を動かしていましたが左足は、麻痺も入り固くなって行きました。私は、今のうちに食べれるものを食べておこうと思いやけ食いしていました。
その頃、既に左足と左手が動かなくなっていました。
その後、お通じも筋肉の萎縮のせいか段々と力を入れているけどなかなか出なくもなりつつ時間かけて出してました。
その後、呼吸が少し詰まるような感じになり主治医に言うと酸素を鼻から管を通して入れるようになりました。
進行状況遅らせる薬は飲んでますが止まらないままです。
その間に身体障害者手帳や特定疾患医療費申請など障害年金申請など少しずつ申請していきましたえその時の私自身の気持ちは、呼吸を付けない選択をしつつも色々と調べてましたしALS患者のグループに参加したり登録してました。テレビでもよくALS患者のニュースや色んな記事に目が止まりました。そんなころ京都と事件もあり痛いほど気持ち伝わりました。知人の先輩もいきなり亡くなられ私の気持ちと考えて方は複雑になっていくばかりでした。
そして、年の暮れに国立病院の神経内科に行き診察をしてもらいましたら股の付け根から血を抜かれたりしてお話してたらすぐにでも呼吸器付けないといけないと言われDの病院に検査入院することになりましたが その後、年明けてうつるので正月休みに自宅に帰る事にしました。令和2年のことです。
年明けて直ぐに国立病院に入院して呼吸器をつけての生活でした。鼻マスク式ですがなれないので最初は、たいへんでした。
しばらくして日中は、外していいことになりました。
その頃右腕の力も落ちてきてました。肩から上には、腕も上がりにくくなり補強器具を借りて試したりしてみました。
入院して1ヶ月後戻る病院もなくなり国立病院の中の療養施設の病棟に移り生活するようになりました。
(一般病院に戻り再び入院するのであればラジカット点滴を2週間ずつ打てますが 連続しての同病院にいては、ラジカットも打てないままでした。)
bR 療養施設内での生活(病院内にある)
一般病棟からこちら療養施設と専門病棟に移りました。定員40名以上の病棟で元の筋ジストロフィー病棟でもあり難病患者さんに気切切開された呼吸器の人も多い病棟でもあり介助員さんなど保育士資格をもった指導部などあり療養手続きすれば優遇や免除を受けれるけど 筋ジストロフィーの方はは、気切切開しないでもいいのにALS患者は、気切切開してなくて人工呼吸器つけないといけないとかの決まりがあり難しい療養型の中で生活をしてました。病院側は、早く胃ろうや気管切開しての人工呼吸器を進めてきますがその時の状況は、呼吸も普通だし食事も普通に入るし食べさせて貰えましたから悩む選択での生活が続きました。
普通に一般病棟とかわらず面会外出もできてましたので問題は、なく過ごしてテレビを持ってきたりパソコン操作をどうにかしてました。インターネット回線が頭上の天井からつなげてとても良い設備でしたので繋いで色んな情報収集をしてました。
月に1回とか家族と外出したりして色々と手続きなどや息抜きできていました。
そんな時にご飯もの通りとか悪くなり食欲が落ちたりして朝晩のご飯を抜き昼だけ食べるようになりました。栄養注入するにあたり令和2年6月24日に胃瘻造設手術だけをしました。胃カメラをのみ入れ込まれたままで胃瘻造設手術をして苦しかったですね。(笑)
それから、薬と朝晩の栄養注入は、始まりました。体重も見る見るうちに痩せて細くなったような感じで自分自身自分じゃないような思いをすることがまじまじと伝わってきましたね。次第に手も少し動いていたのでマウスを持ったりしてましたが出来なくなりにつれて 視線入力のトピーを購入して色んなセンサーもそろえて練習をしてましたコミニケションは、言葉で話せていたので出来る限り口で話してましたが しばらくすると口も滑舌悪くなりましたね・・・トホホ涙。
視線入力で早めに始めていたのでやり方は場数をふみ出来るようになりました。
伝の芯とかではなく。私物パソコンに無料のハティーラダーをダウンロードして開発者の吉村様からいろいろと教え頂きそのソフト使っています。とても便利です。
ピルスイッチよりも視線入力で覚えてしまい少ししか使いませんでした。
そんな時にインターネットでALS患者の仲間との情報交換で車椅子の購入やオーダーリースとか新しい意思伝達装着の事や重度訪問介護のことを聞きました。はじめは、何のことか解らず色んな事を調べて目標として自宅に帰り一人で生活することを夢見てはじめに介護保険の申請から始めました。市役所福祉課にメールを送りやり取りして用紙などを送って貰い申請書代筆やり取りもいろんな方にお願いを頼みそこから始めました。
ダダのボランティアではなく動いてくれる方に頼みました。保健師さんとの面会とかしてしばらくして要介護5わ頂きました。その後区分6を頂きました。その後にヘルパーさんの手配に入るのはですが右も左もわからないままはじめ介護の深さと幅を実感しながら少しずつ相談支援事業所さんを知りそこからです。
「コロナの影響」で療養型医療施設の病棟は、封鎖されていきました。面会外出禁止など買い物も出来なくなりました。
重度訪問介護をするためには、ケアマネジャーを見つけるには、一苦労です。病院関係のメールをだして返事を待ちますが佐世保市の介護事業所での24時間の見守り介護は難しいとか言われつつケアマネジャーさんが見つかりませんしコロナの影響でそれどころではない状況でした。しかし、病院のソーシャルワーカーさんには、たのまず自力でメールを送りお願いして決まりました。介護保険作って相談支援事業所さんに見つけてから半年後に見つかりました。それから数か月自宅の確認や救急車の乗り入れなどの確認などの為自宅付近の草刈整備にお金をかけてきれいにして貰いましたがその先がコロナの影響と佐世保市のヘルパーさん不足で一般ヘルパーさんでの難しいとなり自薦ヘルパー協会を調べてメールを送りやり取りから始めますが本当に難しいことが多く断念しましたが今度は、自力で知り合いに相談支援事業所確認お願いしてみますが数人枠しか見つからず絶望してましたが 絶対に家に帰ることをあきらめずして頑張ってました。丁度一年たつ頃に気管切開して自宅に帰るように心の覚悟も決め長生きすることできる喉頭分離手術を令和3年12月15日にしました。気がついたらベット上で手術は、終わって喉にはカニューレと人工呼吸器がついていました。2日目には、療養型医療施設の病棟に戻してもらいました。
お正月をすぎて市役所福祉課にもメールを送りやり取りしてリモートを使ってでも面会や主治医との確認をしないと重度訪問介護は、進まないと訴えました。そのかいあってか市役所福祉課と病院との会議が終わりリモートをで私も最後に顔出ししました。ここまでに1年以上かかってますが。身体の進行状況も最近は、時々 頭で考える動きと違う動きを神経が動き誤動作するようなときが増えたり神経の通った身体のがどこと限らずピク付き出すようになりました。
重度訪問介護のほうは、しかし、ヘルパーの進展は、無く自薦ヘルパー協会さんにもう一度お願いしますが求人募集の始まっ後に別の方からよからぬうわさで またもや中断してしまいました。
誤解でしたが暫くしてまた再開しました。
そこからです求人募集で今のヘルパーたちの面接をして決め採用内定しました。
後は、療養型医療施設の病棟も看護師家族のコロナの影響でスタッフが少ないことやこれからの外出練習時のことや色々な打ち合わせが難しいなか最悪を考えての打ち合わせをソーシャルワーカーや師長さんや担当看護師のみなさまともはなしましてう何とかここまでたどり着きました。
言葉や文章では、短い時間ですがこの間は、大変なやり取りしてました。最悪の時為動画をいくつか取りました。
ヘルパーさんの募集前までは、どうなるか予想もつかない状況でしたが病院側の協力と広域協会様の指導から外出練習時実現してヘルパーさんの研修もPCR検査を受けて個室で24時間済ませ感覚や状況を掴んでもらうことができました。
後は、重度訪問介護の支給時間は、きまっていました。訪問介護の方からヘルパーさんの市役所福祉課と病院の看護師さんソーシャルワーカーさん呼吸器担当説明と連絡会議責任者会議が無事に終わり念願の重度訪問介護生活を784時間で受けれるようになり11月1日に全ての入院生活からは、3年3か月ぶりに帰ることができて目標達成することが出来ました。(この療養型の病棟には、2年8ヶ月滞在)
念願の重度訪問介護を出来るように協力してくだっさった皆さんにありがとうございました。
これからも支給時間時間追加申請していけるように市役所福祉課とも交渉していこうと考えています。皆様方本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
大桑
誕生日でケアマネジャーたちのお祝い
体を上にずらして貰っている状況
■人工呼吸器利用者の24時間介護と自立生活の事例