難病 ALS の父が家に帰れた
クラウゼ江利子(ドイツ在住)
2014 年 7 月末、入院から 8 ヶ月、私の実家、長崎県壱岐市という離島に住む 79 歳の父は念願のわが家に帰ることが出来た。ALS と診断されてからその時点で 2 年。
胃ろう、気管切開した今、ヘルパーさんたちが父の手となり足となり、喋れなくなった父の口となり、日々支援のありがたさを実感している。父の前向きさも戻ってきた。きっと支援を受けていなかったら生きることを選ばず、もうこの世にはいなかっただろう。在宅環境の準備をして来て本当によかったと思った。勿論ここまでもってくるのは簡単ではなかった。
2012 年 7 月末の診断当時、口を開けば病気の話で、先の事を考え、家族中泣いてばかりいた。その年の冬、ドイツからの帰省中に、子供の頃、水の事故で亡くなった妹が枕元に立った。それから何故か漠然と父を助けなきゃと思った。どうやって助けるのか、何も分からなかった。
ただ遠い昔、27 年前、闘病記 『ある難病患者のつぶや記』 松嶋禮子著 を読んだことがあって出版社に問い合わせ、松嶋さんに手紙を書いたことがあった。暫くして松嶋さんから返事があり、便箋には当時のタイプライターで、ヒモで吊り下げた手によって打たれた 2 行の短い文章の中に ” 打つのに 2 時間掛かった ” とあった。ALS は大変な病気、それだけは覚えていた。
実際のところドイツに住んでいる私に、遠く離れた父の為に一体何が出来るのかさっぱり分からなかった。ドイツに帰り、ALS についてや、日本でどんなサービスを受けることが出来るのか、片っ端から調べることにした。そして状況把握の為、電話やメールの日々が続いた。その頃、重度訪問介護という制度を使えることや、ALS 協会の存在を知る。
重度訪問介護は国の制度だから当然日本全国津々浦々どこでもやっていると思った。しかし現実はやっているどころか、受ける事業所も無く、重度訪問介護の周知さえされていなかった。それでも必要性を説明すれば簡単にやってくれると最初は思っていたがそうではなかった。
更に調べていくうちに、多くの自治体で同じように受ける事業所が無く、困っている人たちが大勢いる事が分かって来た。必要なのに、どうして・・・と、腑に落ちないまま、何か行動をすぐに起こさないと、進行の早いこの病気に間に合わないと思った。どれ位頑張ればいいのか、いつまで懸かるのか検討もつかなかった。
運よくネットで色んな機関と接触した中で、全国障害者介護保障協議会 (電話0120-66-0009)は唯一具体的に何をすればいいのか継続的に電話やメールで教えてくれた。代わりに何かをやってくれる訳ではない。教えてもらったノウハウをもって、自分で動く人にしか向いていない。誰かがやってくれるのを待つ人にはいつまで経っても状況は変わらない。
ドイツにいながら情報収集をネットや電話でして、帰国時に各地で重度訪問介護の現場を見学させてもらい、関係者や専門職から話を聞いた。それを壱岐市で関係者に話す事から始めた。すると訪問看護の所長が理解してくれた。そして父の掛かりつけ病院院長に繋いでもらい、急遽、第一回目の関係者会議を開くことになった。
会議では医療関係者、福祉関係者、行政等が集まった。しかし集まるだけでは何にもならない。事前の準備が必要だと思い、同協議会に指示を仰いだ。それでも専門職を前に経験も自信も無い素人の私が話をすることは大変な勇気が要ることだった。
そんな時、院長が助け舟を出してくれた。” 壱岐市でも重度訪問介護をやろう
” と関係者の前で言ってくれたのだ。
繋いでくれた訪問看護の所長には感謝しきれない。
しかし、その後、すぐに変化があるわけではなかった 解決しなければいけない問題が沢山あった。
その問題のひとつひとつを自分で潰していかないと頓挫の連続だ。何としても父には病院の天井ばかり見る生活をして欲しくなかった。
その辺は、両親にもいち早く理解して欲しかった。特に当事者である父には声を大にして訴えて欲かった。しかし、両親とも高齢で、数々の問題が難解で、毎日穏やかに過したかった両親にとって、私が話す ”
近い将来の為の準備の話 ” は、分かってはいても、直視するには残酷以外のなにものでもなかった。
それでも、限りなく曖昧な話になりながら、何とか父は ” 家で暮らし続けたい
” と、かよわく訴えることは出来た。まだ最初の頃は、そんな日は来るはずはないと思いたかったに違いない。しかし、私の活動により、周りが徐々に騒がしくなり、”
離島で出来るはず無い ” など言われてしまうと、争い事を避けたい両親の か細い声でさえ、かき消されてしまいそうになった。
その内父が気胸をきっかけに入院した。
病状も一気に進み、気胸が治っても、母に介護できる状態ではなくなった。入院生活も長くなり、家にこのまま帰れないかも知れないと分かり始めた父は、私が準備してきた本当の意味をこの時初めて分かった様だった。
何度も短期帰国しながら各地を回り、壱岐で関係者会議を重ね、徐々に話を進めていった。様々な問題をクリアーする過程で、病院をあげて支援してくれるようになり、心強かった。
重度訪問の支給時間数を決める計画相談や審査会では、当事者に見合った時間数を出してもらう為に、前もって家族は要点を知っておくべきだ。
私も同協議会のアドバイスで、一番大事な相談員の選出や、認定調査等、帰国前から事前に準備しておいた。
今思えば、これを私のような素人家族が何も知らず流れ作業的に望んでしまうと、実態に見合った時間数が支給されずに、在宅で家族に大きな負担がかかり、在宅療養の崩壊に繋がるばかりか、家族の健康も脅かされる恐れが出てくる。それまでの努力も水の泡だ。
私も必要であれば使うつもりだったが、希望のヘルパー時間数に全く足りない決定が出て困っている人は、弁護士を使うのも一つの方法だろう。 本州のALSの知人は、24 時間介護必要にも関わらず、その半分しか出てなかった為、「介護保障を考える弁護士と障害者の会」を利用した。弁護団で障害状況を本人や家族や主治医に聞取り後、何十枚もの資料を弁護団が作り、市にヘルパー時間数の変更申請したところ、希望のヘルパー時間が市から決定されている。
時間数決定後、いよいよ父を家に連れて帰る為に事業所との話し合いになった。地元の事業所も色々検討してくれたが、重度訪問介護の長時間派遣と夜間が難しかった。そんな中、東京の NPO の協力で事業所が出来た。地元の未経験者を採用し、東京で重度訪問介護研修を受け、晴れて父は家に帰れることになった。
退院の日、家に着いた時、父は号泣していた。多くは語らない父だが、やっぱり家に帰りたかったのだ。現在、ヘルパーの長時間勤務を実現し、数ヶ月でかなり上達し、父の状態に合わせた介護になっている。最初の頃、ローテーションがうまく回るまでは、地元事業所の協力も得られ、有難かった。
新聞社やテレビ局も経緯を取材してくれるようになった。離島での取り組みとあって、厚労省も興味を持ち、視察に来てくれた。話が大きくなり、色んな人が声を掛けてくれた。
地域で使っていなかった制度に息を吹き込むことは大変な労力だと自分で経験して分かった。
しかし、使わなかったら、いつか本当に必要な制度でもすたれてしまうかも知れない。
海外に住んでみて初めて分かることだが、 日本人のきめ細やかさやチームワークは世界に誇れるものだろう。日本各地の重度訪問介護の現場を見せてもらってそう思う。
離島、高齢、難病という悪条件を乗り越え、壱岐市でも父が体を張って証明してくれるだろう。
父の事が全国で同じように困っている人たちの励ましだけでなく、前に進む勇気に繋がる事を切望している。
以下は
1年後の2015年10月の情報
離島で念願のALS患者の24時間在宅介護を実現〜壱岐の島で事業所立ち上げの取り組み〜
クラウゼ江利子(ドイツ在住)
2014年夏、入院から8ヶ月、長崎県壱岐市という離島に住む高齢の父は念願の我が家に帰る事が出来ました。神経難病ALSと診断されてからその時点でちょうど2年でした。現在、1日24時間のヘルパーの介護を受け、1年数ヶ月になります。その間に気管切開と胃ろう増設をしました。
告知後、ALSについて無知だった私は、居住先のドイツに戻り、インターネットで情報を集め、状況把握の為、方々に連絡を取り始めました。すぐに重度訪問介護という制度を使っているALS患者が島外には多数いる事を知り、それが壱岐でも使えれば、父は家でずっと暮らす事が出来ると思いました。すぐに地元の関係者に連絡を取りましたが、壱岐では重度訪問介護の周知さえされていない状況で、利用者は1人もおらず、利用できる事業所も無い事が分かりました。
このままでは父にはあまり時間が無い、人工呼吸器をつけても永久入院しか無いと分かり、直ちに短期帰国しながら在宅療養への活動を開始する事にしました。頼れる味方が誰もいない中、ネットで知り合った全国障害者介護保障協議会(0120-66-0009)は、主に制度についての指南や、行政へのアプローチの仕方を具体的にメールや電話でアドバイスをしてくれました。しかし、動くのは勿論自分しかいません。患者家族とは言え、いち素人で、ドイツから通いながら何処まで出来るのか、不安でした。
次の短期帰国で、重度訪問を利用した在宅療養中のALS患者を訪ねた後、壱岐に渡りました。そして父の口から、家に住み続けたいという意思確認と母の同意を得て、訪問看護の所長に話をしたところ、島で唯一神経内科のある光武病院の空閑(くが)院長に繋いでもらいました。すると、私の短期期滞在中に、きゅうきょ、関係者を召集してくれる事になりました。介護保障協議会のアドバイスで、会議用に重度訪問介護についての資料も準備しておきました。会議では院長の理解も得られ、「今後、壱岐市でも重度訪問をやろう」との声に、出席者の賛同を得ることが出来ました。
その後も、短期帰国しながら(昨年は5回、2週間〜1ヶ月程度)、各地の現場を見学し、当事者や専門職に話を聞いた後、壱岐に渡ることを繰り返し、市、福祉・医療関係者との会議を重ねました。特に市に対しては、計画書提出を前に、ALSへの理解や父の状態を知ってもらう為、病院をあげて協力してもらった事もありました。既に父は気胸をきっかけに入院していたので、看護師による入院中の父の状態を客観的に証言してもらったり、専門医に現症を書面にて提出してもらい、見守りの必要性を訴えました。そのほか、介護保障協議会の指導のもと作成した24時間の重度訪問介護の支給交渉用の資料等を提出しました。その甲斐あってか、審査会の後、間もなく壱岐市より月744時間(毎日24時間)という希望通りの重度訪問時間数が支給決定となりました。(なお、本州のALSの友人夫婦は市町村との協議が難航したため、介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット(0120-979-197)の支援を受け24時間以上の支給決定を受けました。)
壱岐市より支給決定が出た後も、なかなか既存の事業所では、重度訪問介護の利用ができませんでした。島内の事業所は短時間のサービスしかできない登録ヘルパーが中心で連続8時間以上のサービスを原則とする重度訪問介護に対応できませんでした。
そこで介護保障協議会の関係団体である東京のNPO法人広域協会が壱岐にヘルパー営業所を作る事となりました(ALSの在宅支援を東京で行っているさくら会と協力して実施)。早速地元で無資格未経験者を中心に求人し、間もなく常勤4名と(うち無資格者3名)、准看2名(1人は常勤で管理者兼サービス提供責任者になった)も見つかり、管理者は東京のさくら会で研修を受け、重度訪問介護事業所の省令通知などについて広域協会で教育を受けました。無資格者は、東京の広域協会で重度訪問介護のヘルパー研修を終え、東京のALS患者宅を見学しました。その後壱岐に戻ってすぐ1日2〜3交代で24時間365日の勤務が始まる事になります。
退院の日、自宅に着いた時、半ば帰宅をあきらめていた父は号泣していました。多くは語らない父ですが、やっぱり家に帰りたかったのです。苦労が報われた瞬間でした。
あらかじめ病院でヘルパー全員、父の状態と基本的な介助方法や吸引指導を受けていましたが、医療ケアが必要な患者を家に帰す事は壱岐市では父が初めてで、ましてや状態も一定ではない進行性の疾患にヘルパーと家族だけで対応するのはとても不安がありました。深夜の唾液誤嚥による呼吸苦や連夜の体の痛みで、一晩に何度も訪問看護を呼んだ事もありました。それでもその内、訪問看護や医療とも連携がうまく取れるようになり、不安も軽減され、みんな落ち着いて行動出来る様になっていきました。おかげで胃ろう増設や気管切開のタイミングを逃すこともありませんでした。
1年数ヶ月たった現在、非常勤1名も加え、職員数7人になり、全員が口文字での意思疎通(父の体調による)、吸引(同意書で1年、その後3号研修)、外出介護を含めた24時間の全ての介護をしています。そして、自分たちのやっている事を客観的に見、更なるALS在宅療養のイメージ作りの為に、全員が交代で、島外のALS患者の自宅介護の現場に2泊3日等で見学研修をしています。また、月に一度は父の訪問医、及び医療専門職とヘルパー全員の会議を開いて状態の確認をしています。ここまで小回りが利くのは、事業所一つで介護を対応しているからでしょう。
ヘルパーと外出
壱岐市では交渉の結果、入院時コミュニケーション支援事業が、今年4月よりすでに施行されており、時々ある短期入院中も、いつものヘルパーがいつものローテーションで24時間個室の病室に付き添っています。家族や父の不安も解消され、事業所のリスクも激減する事となりました。ここでも壱岐市の理解と、入院時のヘルパー受入れを認めて下さった光武病院の理解には大変感謝しています。
ALSの療養現場では、随時問題が噴出します。ここまで誰ひとりヘルパーが辞めて行く事が無かったのは、軽度の内からヘルパーが関わっていた事、度重なる困難の中でも連携が取れていた事、前向きさ、そして母の存在が大きいと思います。当事者である父は80歳という高齢で、望んでいた当事者主体にはなり得ませんが、母がうまく舵取り出来ているのは、父の痛みだけでなく、ヘルパーの痛みも分かっているからでしょう。
ヘルパー全員と父・母
先日神経難病患者の交流会を行いました。患者3名と家族がただ集まって話す機会を設けるだけでも気持ちが救われるし、情報共有出来ます。今後、父の様な選択もある事を更に広め、家で暮らしたい患者や家族の応援をしていけたらと思っています。NPO広域協会では壱岐市で今後他の重度障害者にも対応したいと考えているそうです。
海外に住んでみて分かる事ですが、日本人のチームワークは海外に誇れるものでしょう。帰省の度に、各地のALS患者の現場を見学させて頂き、つくづくそう思います。離島の壱岐でもヘルパーさん達と父が体を張って証明してくれています。父の事が、壱岐市だけでなく、全国で同じように困っている人たちの励ましだけでなく、前に進む勇気に繋がる事を切望しています。
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